昭和42年9月3日   朝の御理解

 我情我欲を放れて真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。
わが身は、神徳の中に生かされてあるということ。信心の究極ところは、この神様のお恵みの中に、お徳の中に生かされて生きておるんだということを、悟らせて頂くということなんです。分からしてもらうということ、悟らせてもらうことは違います。分からして頂くということは、話を聞けば聞くだけでもそうだなーと。神様のお徳に漏れることはない。神様のおかげの中から私共は、芽が出ることもできないし、また、私は、神様のおかげを頂かんでも良いというものには、いかんものだと。ね。分からしてもらうところから、神恩に対する報謝の心が湧いてき、日々がありがたい。もったいないというおかげも受けられるのでございます。ですから、どの様な中にありましても、どの様な場合にありましても、お徳の中に、あるのだという実感が湧いて参ります所に、不安もなからなければ心配もない。同時に頂けるものなら、自ずと、信心を頂いておるということが、ありがたいということだけしかないのでございます。ね、そこで、お互いがその御神徳の中に、生かされてあるということを、分からせて頂く為にどういうけいこをさせて頂いたら良いかというと、我情を去るということ。我情我欲を放れて、我情我欲を放れてみないとです。わからん。我が身は、神徳の中にありということが、わからん。ね。こういう素晴らしい御守護の中にお守りの中に、私があるんだなということがわかる。ね。そこで、そのお互いが我情を捨てるけいこであり、我欲を捨てるけいこが日々繰り返されていかねばなりません。ね。今日は総代幹部の方達だけでは、ございませんね。ね。御信者の方達も、集っておそらく十月に開かれるでありましょう。まあ、確定は、しておりませんけれども、開教式がございます。いわゆる教会としての、お認めを頂きますから、その教会としての、新発足ができます。お礼のまたは、願いのまた、教会にならして頂きたいという報告のお祭りが開教式がとこう思うのでございます。けれども、その開教式には、普通の大祭のような訳には、まいりません。まあ、これは、私の考えでございますけれども、もう本当に私の願いというのは、全教一新全教一家と前教主様が仰せられておりました。ね。金光教全体が一つの家族の様にね、本当に教祖の神様がお道を開かれた当時のあの生き生きとした。それこそ生々しいまでのちょっとこう突いたら血がぱっと飛び出る様なさわったら暖かみを感じるようなそういう生き生きとした信心に帰らして頂くという様な生き生きとした。全教がそういう面において一新していく。ね。同時にその全教が一家の様な雰囲気の中に教団の全てのことが進められる。教会のいよいよ、ね、それぞれの教会の発展を祈り合い願い合いしていくというところの運動というか、そういうスローガンの元に信心が進められて行かねばならない。それが私の願いであり、一つの理想教でもございます。ね。ございましたので、また、ございますので、そういうことにならして頂けれる。例えば、もう過去の私共がです。なら九州中に号令、号令というとおかしいですけれど、九州中にそのことを私が声を大にして申しましても、椛目が何と言いよるか、大坪が何と言いよるかというようなことでございましたでしょうけれども、今度私がここで、教会設立のおかげを頂がしてもろうて、そして全九州のまあ、主だった教会とか主だった先生方にです。こうして私が教会長として新しい合楽教会として発足致しました。どうぞよろしくお願いしますということになりましたら、全教の、全九州の私を知っておられる方たちだったら、皆祝福して、それをお祝いして下さるであろうと、こう信ずるのでございます。そこで、私は、いつも申しております様に、小倉、福岡、久留米、甘木それに佐賀。これは大体、桂先生の御信心の流れを踏んでいるのではありません。けれども九州におかげを頂いておる限りはです。そういう佐賀の教会というのは、ほか教会あたりでも、ここの教会を設立させて頂くということに、を皆さんから、祝福を受けて教会の記念教会設立開教式の記念祭が奉仕されなければならないとこうと思うのです。そういう訳ですから、いままでよりもずっとこう範囲の広いお祭りになることであろうと思う。それには、もう、普通の記念祭でも、1年前からその準備が行われるのでございますけれども、今度のは、そんな訳には、まいりません。もう後、40何日かで、その祭りが仕えられなければならんという時でございますので、え、そういう様な準備のために、もう、月次祭の夜からいろいろより良い話し合いがありまして、今日は、総合いわば全部の方たちの集まりを頂いて、その具体的な話合いをしようというのが、今日なんですよ。もう本当に考えてみますと、随分金光様の信心は、お祭りが多いなー、行事が多いなーと、本当にそう思います。ところが実を言うたらですね。その行事が多ければ多い程です。お祭りが多ければ多い程、しかし皆さんがおかげを受けておるという事実があることです。ああ、また、お祭りばいなーと、おっくうに思う人は、いざしらずけすけれども、その、お祭いりというものはです。本当に真心から奉仕しよう。勤めさせて頂こう。御用に使うて頂こうというほどしの人ならばです。そのお祭りの度におかげを受けておるという事実があるということです。お祭りのたんびんに皆がおかげを受けておるということ。お祭りのたんびんに信心が一段一段進んでおるということでございます。ね、ですから例えば昨日そういう開教式なら開教式を奉仕させて頂くためのこれから、準備が内外共に、いろいろございますでしょう。
昨日は、まあ、さっそく総代さん方や秋永先生達夫婦を交えて私も交えて、そのための今日の話し合いのスムーズに行くことのために、話合いをいろんなことになって参りましたんですけれども、言うならその記念式の為に、一昨日からそしてきのう。そして今日もまた。昨日の夕方秋永先生は帰られましたが、明日も、また、早うから出て来ななりませんからと言うて、もう毎日毎日がそういう様な御用に使って頂いておる。そこで、私共がここに、生まれてくるのが、誰でも同じことで、人情なのです。ね、はあ、そんなら毎日、神様の事ばっかり。自分の仕事の方にも、追われとる。こういう用事もある。そういう時はですね。我情我欲を離れるけいこをさせてもらうのです。なるほど、人間的には、今日は、どこに、行かなんごつなっとる。どこにもこうある。しかも、今日はたまたま、日曜である。日曜は、ああいうプランもあったという様な事をです。いわゆる、神様の願い。神様事に一つに集める。ここには、もう、我情を捨てた姿なんです。自分の人情という自分の思いというものを捨てて。ね、神様の願いに、私共がはせ集まる。はせ参じる。そして神様の御用に真心から、それを奉仕する。今日はこんな訳でございますからと言う様な自分事、私事を外していく所のけいこなのです。そこから私は、生まれてくるのが、なるほど、わが身は神徳の中に生かされてあるなあーということでございます。なるほど、神の用を足せば氏子の用は、神が足してやる。と仰せられるが、そうだなーと。私がした位のことじゃない。神様が私の用は、して下さると言う様な体験が生まれてくる。そこに、わが身は、神徳の中に生かされてあるのだなーとなって来る時にです。ね、これからの、私共の信心生活というものが、内容的に変わってくる。ね。言うならば、一切を神様が捧げ祭ったところの生活。ね。先日あることで、総代の中村さんが言われたという。私はまた聞きですけれども、本当にありがたいことだなーと思うたのです。私だん、もう、初めから、もう、それこそ、家も財産もいや、身も心も親先生に、捧げてあるのだから、いや、私はそげなことは、もう、御免蒙りますと、言ったようなことを言われた。と言うことを聞いてですね、さすがに、ありがたいなあーと思うた。もう、私だん初めから、家も財産も身も心も言うならば、親先生に捧げておる。そういう生活が信心生活なのです。そういう生活の中にです。素量な自分の我情というのは出て来るのです。今日はとても、忙しゅうございます。今日はどこに行かななりません。という様な我情が出てくるんですけれども、その我情を押し殺し押し殺して行くところに、これではいけなくて、いわゆる心行一筋と言うか、ね。我情を捨てた言わば、思いの中に、私共が奉仕する。そこに、教祖の神様が仰っしゃる。「我情我欲を放れて真の大道を開き見てみよ。」自分の思いなんかかなぐる捨てて、そして本当の道を眺めて見よ。自分が神徳の中に生かされてあることが、分かるのだ。ね。そこに、私共の信心生活をさせて頂く者の喜びがなからなければなりません。ね、信心は。だから、我情欲我を外して行くけいこ。ですから教会の例えば、様々な行事の時、そういう時にこそ、自分の我情を捨てる。もう、こよないチャンスであるということがわかります。ね、ただ、自分の思いのために、自分がああありたい。こうありたい。こうして頂きたいというて、神様にお縋りをしてお参りをさせて頂いてそのために修行をさせて頂いてその為に修行をさせて頂いておるという時代。そういう時代もあって良いのですよ。ね、お広前のことなんか自分達なんかそのタッチすることなんか考えていないという時代があるんですよ。自分がおかげを頂く為に、自分の思うごつなる為にお願いする。そんために、お参りをする。その為に修行するという時代もあって良いのです。ね。それでも、それだけでは、我が身は、神徳の中に生かされてあり。と言ったような喜びは、いや、そういう味わいは、頂けないのです。ね。私共は、もっともっと、大きな願いの元に信心が進められて行く時に、私共の小さい願いであった、今ここに於いて思うておったそういうふうなことは、願うわんでも、頼まんでも、いつの間にか成就しておる。いわゆる神の用を足せば氏子の用は、神が足して下さるという程のです。なんとも行き届いたことの働きになってくるのです。ね。この様なところを今、散々、今になってわかるわけです。そういう為に、信心を一生懸命にしておると言う人。そういう為に修行をしておる人。これがまあ、初心の方達の信心でしょう。そして、そこんところがまあ、どっちつがず。言うなら御用もさして頂かんならん。自分の御用もさしてもらわんならん、そんな神様のことばかり言っておられない。ね。そこんところの中間のところにおる人がまあ、言うならば、ほんとじゃないでしょうかね。本当言うたら。椛目の場合、例えば千人なら千人の信者がおりましても、もう、信者のその九五〇人位は、いわゆるそうじゃないでしょうか。ね。じゃ、後の五〇人位がまあ、神様事というたら、あれも捨て、これも捨て切って神様事にもって来る。先程の中村さんのまあ、言われたというそれが、本当か、うそか、知りませんけれども、そういう境地が開けてきたら、素晴らしい。私だん初めから家も財産もいや、身も心も親先生に捧げてあるのだから、そういう話は、御免蒙るということである。ね。そう言って、なら私が中村喜久代さんの家、蔵、財産を私が貰っておるわけでもなからなければ、私がいつもずーっと中村喜久代さんば、私がここに置いとるわけでもないのである。やはり、中村初美さんの主人公として毎日お商売に勤しんでおられるのである。もう70でしょうか、毎日北野からこうやって朝参りをしておられるだけであってその後のやっぱり実を言うたら中村喜久代さんのご用を一生懸命なさっておられるわけでございます。その中村喜久代さんの御用がそのままです。神様のご用と信じておられるであろうとこう思うのです。ですから、今日も、どうぞよろしゅうお使い回し頂きます様にというのが、日々の中村さんの願いなんです。中村初美さんで、自分が働いておられますけれどもです。ね、それも、私の用じゃない。神様の御用ですから、神様にお使い回しをを頂かなければできることではない、という確信からどうぞ今日も、よろしゅうお使い回し頂きます様にということになってくるのです。ね。そういう人が例えて言うならば、まあ、五十人あるといたしましょうかね。千人、いわば五分です。それが六〇人になり100人になりだんだんそれが広く大きくなっていくということがです。神様の言うたら願いなんです。そして私共の願いでもなからなければならんのです。神様の願いと私共の願いが一つになるのですから、なるほど、四神様のお言葉をかりてすると、神の用を足せば氏子の用は、神が足してやると仰っしゃるようなありがたい、それを私共が教祖の神様のお言葉を持ってすると、我が身は、神徳の中に生かされているんだなーと。私がせんでも、神様は、ちゃんと向かえ下さってあるんだなあーと、言うおかげの中に、生活させてもらう様な生活をです。願いとしての信心。今日は、そういう意味でのまた、会合がここでございます。ただ今申しました様に、参加出来られない方が実を言うたらほとんどでございましょう。まあ、せいぜい、今日五〇名余りの方が、集まられるのじゃございますまいか。なら、今日五〇名の方が集まった。その50名が良い信心、本当の信心かと言ったら、そうじゃないのですけれども、ね、けれども、私、そういう意味あいで、例えばいろんな会合には、出席される。もう我情は外すけいこなんです。自分の我欲をはずすけいこなんです。そういうけいこを本気でそういうけいこに取り組んでおかげを頂かなければならんと思うですね。どうぞ。